宗教二世、教会二世に共通的に見られる現象があります。罪責感です。
そのメカニズムについては後述しますが、親からインストールされたものと、宗教によってインストールされたものがあります。親によってインストールされた罪責感は、宗教によって正当化されます。
罪責感は人間が本来持っている機能です。正常に機能すると、人間を守ってくれます。
ところが、罪責感が間違ってインストールされると、自分は間違っているので責められて当然である、カミから罰せられて当然であるという間違った意識を感じ続けるようになります。自分は天国に行けないという感覚に怯えながら生きるようになります。
これがエスカレートすると、神経症的になります。日々、聖書を読まないとカミに罰せられる、祈らないとカミに罰せられる、宗教活動に参加しないとカミに罰せられる。いつもそのような後ろめたさを感じながら生きています。
宗教活動への参加は喜びではなく、罰を免れるための免罪符になります。布教のノルマが課せられることもありますが、邁進することで罰を免れることができるのであれば、逆にありがたいものになります。あらゆることを犠牲にしてのめり込んで行きます。
団体からハラスメントを受けて苦しんでいる方が、その過酷な状況に居続けようとすることがあります。自分で決めようとすると罪責感に襲われ、何も決められなくなってしまいます。
カウンセリングでは、宗教行為は義務ではなく、自分から自発的に行うからこそ宗教行為であることを共有することがあります。場合によっては、日々の宗教行為を一端やめてみることをお勧めします。
続く

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